2015-01-27

愛ある限り戦いましょう!そうテーマはLOVE

本と日本語をこよなく愛するArimoです

ごきげんよう

久しぶりに行ってみよう!!

今日は、何の日でしょう?

求婚の日」です!

ひゃっはー


明治16年の1月27日に、中尾勝三郎さんという方が
生涯の伴侶を求めるため、新聞に求婚広告を出しました。
これが日本の新聞紙史上初の求婚広告! ということで、
「求婚の日」として制定されたようです。


ちなみに掲載された媒体は伊勢新聞と三重日報です

中尾さんも自分の求婚広告が後世語り継がれるとは知らず、

まさか、フルネームがさらされるとも知らず、

けったいなことです。



※求婚(プロポーズ) 解説Arimo
  
 結婚したい相手に結婚の意志と契約条件を提示し、取引(婚姻)に応じさせる行為。

 めでたく、ディール(取引)成立後は、契約書(婚姻届)にサインをして、
 双方が合意することである。
 しばしば、対象者1名に対し求婚者が複数出る場合がある。
 現在の日本の民法では、
 「配偶者のある者は、重ねて婚姻をすることができない」(民法732条)とあり、
 公序良俗違反に当たるので、求婚者が複数出た場合は、
 多くはサドンデス方式によって取引を勝ち取るのが一般的である。

 


  さて、こんな「求婚の日」のテーマは「愛」「赦し」でございます。

  先日、本校の神父講話会に出席いたしました。

 講話会の中で「GOTAISETSU」というDVDを鑑賞したのですが、

 神父様の話と合わせて、なかなか考えさせられる内容でしたので

 ご紹介いたします。

 DVDのあらすじについては、Arimo解説ですので、いつものことながらアレです。
 お察しください。

 
 「GOTAISETSU」
 


 


かっしーの神父姿はもはや「神」




<Arimo的あらすじ>
その昔、ザビエルさんが大々的に布教にあたった山口市。
当時日本には「愛」という言葉はなく、そこでは愛は「御大切」と伝えられていた。
その街の教会に楓は神父として帰ってきた。そこは、かつて母親に捨てられた
楓が育った教会であった。
神父になった今も楓の心は深く傷つき、赦しという境地には至らなかったが、
ある日告解室に母親が現れる。初めて聞く母の思い。
若き神父が、「人の愛=御大切」によって成長していく姿を描く。



「いたずらなKiss」、「白線流し」・・・・・ロスジェネ世代最高のイケメン

(↑あくまでArimoの独断です)

柏原崇主演!!

決して、かっしー見たさで参加したわけでは、ありません。注意。


いやね、主役の神父様は立派でしたよ。最後、自分を捨てた母に対して

「あなたも幸せになっていいんですよ」って。

本当に素晴らしい心意気。

さすが、私のかっしー


でもさ、子どもを捨てた理由が、、、、

好きな男性ができたからって。。。

さもありなんな話なんですが、

Arimoは

絶対!許すもんかっ

かっしーが許してもArimoがゆるさない(怒)


という気持ちでおりました。鑑賞したすぐはね。

鑑賞後、


神父様は、この方にとって(捨てられた事)は、

その時は不幸なことであったかもしれませんが、

この事があったことによって、今ある幸せにつながったかもしれません。

一時的に不幸なことがあったとしても、それによってその後が

不幸であるとは限りません。

と神父様自身の経験を含めて、お話くださいました。

(すみません要約しすぎかもしれません。他の参加者の方フォローお願いします)
 

確かにそうかもしれませんが、不幸は不幸でしょう!!と

悪いことは悪いでしょう!!

赦されないでしょう!!

ってか、赦しちゃダメ!!

 母親の蛮行に怒り心頭のArimo的には、

素直にこの話を聞けなかったので

そのまま、神父様にもお話いたしました。。。

そうしたら、

神父様はそのつっかかりを今後の課題にと

おっしゃられました。

でだ。

Arimoはこの時、

絶対赦すことはないな、自分ならと思いました。

45分のドラマでしたが、内容が内容だけに、


次の日のお昼のモリバカフェで想い出して

イライラ

次の週の通勤電車の中で想い出して

イライラ

あの母親、赦さねー、絶対赦すもんかと。

で、怒り心頭から本日、4日目

イライラやムカムカすることってけっこうシンドイなぁと

思いました。

怒りを継続するって、けっこう体力使うし、

気分も下がるし、

自分にとって、しんどい。

あー、しんどい。

で、なんとなくやっと神父様のおっしゃっていたことがうっすら

受け入れられる?ようになったような。


「赦す」っていうのは、相手を「赦す」ってことじゃないんじゃないかと

思ったのデス。(ありきたりですみません)

「赦す」っていうのは、自分の心の中にある「怒り」とか「悲しみ」とか

そういうものを、解放してあげるってことかなと。

だって、加害者がどのくらい反省してるとかなんて一生わからないもんね。

調べる方法もないし。。。

むしろ、相手がどうのっていうよりも、結局苦しんでいる自分を赦してあげるって

ことなんだろうな。

でも、これが結構難しい。特に被害にあったすぐとかは。

で、

神父様のおっしゃった

「一時的に不幸なことがあったとしても、

それによってその後が不幸であるとは限りません。」

というのは、不幸を不幸だと思わないと言っているのではなくて、

「大きな視野で人生を見てみなさい」

ってことだと思う。

「不幸」なことがあると、人っていうのは「不幸」ばかりを見てしまう

「不幸」ばかりを見てしまえば、自分がしんどい。

だから、視野を広げましょうと。広げることによって自分を「赦し」ましょうって

ことなのではないかと思うのデス。

まぁ、こういうことに「正解」も「不正解」もないとは思いますが、

星野神父様、判定はいかがでしょうか?


☆今日のおまけ☆


「御大切」とはなんぞや?

『近代になってから「愛」という語で表すようになった心の動きをキリシタン文学でいう』
(日本国語大辞典/日本国語大辞典第二版編集委員会、小学館国語辞典編集部編より)

わからない言葉があれば、まずは、図書館1F参考閲覧室です。

さて、当時なぜ『愛』というものが『御大切』と訳されたのでしょうか?

愛でいーじゃんと思うのですが。。。。

当時の使い方を いろいろ調べてみましたが

坂口安吾こと『パクチー安吾先生』の全集からかなりわかりやすいものがあったので
掲載いたします。

 今から三百何十年前の話であるが、切支丹キリシタンが渡来のとき、
来朝の伴天連バテレン達は日本語を勉強したり、日本人に外国語を
教へたりする必要があつた。そのために辞書も作つたし、対訳本も出版した。
その時、「愛」といふ字の飜訳に、彼等はほとほと困却した。
 不義はお家の御法度といふ不文律が、然し、その実際の力に於ては、
如何なる法律も及びがたい威力を示してゐたのである。愛は直ちに不義を意味した。
 勿論、恋の情熱がなかつたわけではないのだが、そのシムボルは清姫であり、
法界坊であり、終りを全うするためには、天の網島や鳥辺山へ駈けつけるより道がない。
 愛は結合して生へ展開することがなく、死へつながるのが、せめてもの道だ。
「生き、書き、愛せり」とアンリ・ベイル氏の墓碑銘にまつまでもなく、
西洋一 般の思想から言へば、愛は喜怒哀楽ともに生きとして、
恐らく生存といふものに最も激しく裏打されてゐるべきものだ。
然るに、日本の愛といふ言葉の中には、明るく清らかなものがない。
 愛は直ちに不義であり、よこしまなもの、むしろ死によつて裏打されてゐる。
 そこで伴天連は困却した。さうして、日本語の愛には西洋の愛撫の意をあて、
恋には、邪悪な欲望といふ説明を与へた。さて、アモール(ラヴ)に相当する日本語として、
「御大切」といふ単語をあみだしたのである。

-中略-

 御大切とは、大切に思ふ、といふ意味なのである。余は汝を愛す、といふ西洋の意味を、
余は汝を大切に思ふ、といふ日本語で訳したわけだ。
 神の愛を「デウスの御大切」基督キリストの愛を「キリシトの御大切」といふ風に言つた。







おお、すっきり!!

わからないことがあったら、図書館へ~!!

本日も図書館へ行きましょう!!



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